【抄書練習】聖女の救済
そんなことを考えていると携帯電話が着信を告げた。液晶表示を見ると湯川からだった。
「どうしたんだ。いつから女子高生なみの電話好きになった?」
「話したいことがあるんだから仕方がない。今日、どこかで会えないか」
「やけにもったいぶるじゃないか。これから一旦目黒署に行く。その後で大学に行こう。八時ぐらいになると思う」
「それなら着いたら電話をしてくれ。研究室にはいないかもしれない」
「わかった」
電話を切った後、草薙は自分が緊張し始めていることに気づいた。
草薙が大学に着く頃には八時を過ぎていた。湯川に電話をかけたが繋がらない。もう一度かけると、何度か呼び出し音が鳴った後、湯川だ、と声が聞こえた。
「すまなかった。電話に気づかなかったんだ」
「今、どこにいる?研究室か」
「いや、体育館だ。場所は覚えてるな」
「当たり前だろう」
「話ってのは何だ」
「そう、急がなくてもいいだろ。どうだい、たまには」湯川は二本のラケットを手に近づいてくると、一方を草薙のほうに差し出した。
「こんなことをしに来たんじゃないんだけどな」
「時間が惜しい、といえるほど君が粘れれば大したもんだ。前からいおうと思っていたんだが、ここ数年で君のウェストサイズは、どう低く見積もっても九センチはアップしている。聞き込みで歩き回るだけでは、シェイプアップの効果がないということだ」
「いってくれるじゃないか」草薙は上着を脱ぎ、差し出されたラケットを握った。
「俺も歳かなあ。腕相撲なら若い奴にだって負けないだけどな」
「腕相撲などで主に使う速筋は、加齢によって衰えても、少し鍛えればすぐに戻る。ところが持久力を支える遅筋のほうは、なかなか元には戻らない。心肺機能なども同様だ。地道にトレーニングに励むことをお勧めする」
淡泊な口調でそんなことをいう湯川の息は全く乱れていない。なんだこいつ、と草薙は思った。
壁にもたれ、並んで座った。湯川が水筒を出してきて、中の液体を蓋に注いだ。それを草薙のほうに寄越した。飲んでみるとスポーツドリンクだった。よく冷えている。
「こうしてると、学生時代に戻ったみたいだな。俺のほうの腕前は、ずいぶんと落ちたが」
「続けていなければ、体力と同様に技術も衰える。僕は続けているが、君がそうではない。それだけのことだ」
「慰めてくれてるのか」
「いいや。どうして君を慰めなきゃいけないんだ」
湯川が不思議そうな顔をするのを見て、草薙は微苦笑した。
湯川はラケットとスポーツバッグを手にし、腰を上げた。「身体が冷えてきた。戻ろう」
二人で体育館を後にした。正門のそばで、湯川は立ち止った。
「僕は研究室に戻るが、君はどうする?コーヒーでも飲むかい?」
「ほかにまだ話したいことでもあるのか」
「いや、僕のほうから何もない」
「だったら遠慮しておく。署に戻って、やるべきことがある」
「わかった」湯川は踵を返した。
「特別な感情を持ったって、別に構わないんじゃないか。僕は君のことを、感情によって刑事としての信念を曲げてしまうような弱い人間ではないと信じている。」